2007年08月11日

国盗人〜芸術劇場〜

昨日の劇場中継で放送された、野村萬斎さん演出・主演の「国盗人」。
(W・シェイクスピア「リチャード三世」より)

真禅寺は劇場に行って見ていないので、昨日の放送で初めて観ました。
放送時間が二時間くらいだったこともあり、結構カットされてしまったシーンもあるようですが、それでも魅力は伝わってきました。

いやしかし、ノーカットではないのはとても残念です。
後日、BSでノーカット放送があるらしいので絶対にそっちを観ようと思います。(でもBSのばあい録画出来ないんだよなあ・・。というか録画の仕方が分からない・・・泣)
でもDVD出ないかな?!
出て欲しい出ないと困る凄く困る(しつこい)
「山月記・名人伝」みたいにDVD化して欲しいです。切実に。


よ、余計な話はこのくらいにして、感想いきます。


原作の「リチャード三世」は読んだことがあったので、話の筋がつかめないことはなく、その辺は気にせず、演技・演出に集中する事が出来ました。

全体的に、演出に様々な工夫が凝らされていることが分かりました。
一回観ただけでは全てを解釈するのは無理なくらい、あらゆるところに試行錯誤があるのを感じました。「いろいろ詰まってるな〜・・工夫まんさい(笑)だな〜」というのが初見にての素直な感想。(だからこそ尚更ノーカットが観たい!)

なかでも興味深かったのは「面」の存在感と、、悪三郎(=リチャード三世)と理智門(=リッチモンド)の二人の夢の中に同時に現れる死霊たちそして、最初と最後に登場した日傘の白い女性(白石加代子)。


順序は入れ替わりますが、
【日傘の白い女性】から言及。
この役が最初と最後に現れることによって、

・最初と最後が同じ情景になり、最後には既視感を感じることができる
・「夏草や兵どもが夢の跡」の俳句にあるように、「儚さ」「無常観」が強調されているし、最後に何もなくなるという点で、その「儚さ」を感じることができる

この演出でいいな〜と思ったのは、
裸舞台に始まって、裸舞台に終わる
という点。

何もない所から始まって、その後の展開は激しいけれども、終わりはまた最初と同じ所に戻る。何でだろうなあ、真禅寺はそういう演出が無性に好きです。安心感があるというか。
もしかしたら、一つのテーマを純粋に感じられるから、かもしれない。
いくつもテーマが盛り込まれていて混乱するよりも、たった一つの事に落ち着く安心感かもしれない。(事実、テーマが一つではないにしても)

この演出は、ドビュッシーの「沈める寺」に似ていると思った。
沈める寺でも、最初のテーマのメロディーと同じメロディーが、最後にちょっと形を変えて出てきて、曲が終わる。
それに近いものがあった。



次は【悪三郎と理智門の夢】の演出。

あそこはどうやるんだろうとずっと気になっていましたが、実際に観て、ああなるほどと思いました。
シェイクスピアも面白い設定にしたものです。


そして【影】。

これは結構重要なテーマかな〜と勝手に思っているのですが(どうなのでしょう?)、原作を読んだときも、国盗人を観たときも、それが何を表しているのかをはっきり解釈する事はできなかった。

未だにテーマがつかめず朦朧としていて、テーマが影のように霞んでます(苦笑

でも演出では結構強調されていた気がするんだなあ。だからきっと何かあるはずなんですが、
もしかしたら複雑な意味なのかもしれません。

イメージとしては
暗い・恨み・妄念・呪い
など、とにかくマイナスの物。

多分それはリチャード(悪三郎)自身の中にも潜んでいると思うし、リチャード(悪三郎)が殺した人々の恨みでもあると思う。

だが、リチャードの中に潜む「影」とは何か。
そこがよく分からない。
原作本には、「リチャードは太陽を嫌っていた」という注が書かれていて、そういわれれば「影」が強調されるのは分かるのですが、やっぱりまだよく分からない。

リチャードが太陽を嫌っていたことや、台詞の中に「道々見とれて行きたいからな、自分の影に。」という台詞があることを考えると、
リチャードにとっての「影」はマイナスではないのかもしれない。
でも、それがプラスまで行くかどうかは疑問です。
私としては、(主観ですが)プラスに近いマイナス、がちょうどいいです。

国盗人で出てきた「悪三郎の影」は、面を付けていて怪しい感じでした。
だから尚更、プラスではないと思う。

あと、この悲劇のテーマは「良心」である と、原作本の注にはありました。だからその辺が絡んでくるのかもしれないとも感じています。

つまり、「悪三郎の影」は「良心」である。

こう考えれば、良心は普通はプラスだけれども、悪三郎は悪党だから、彼にとっては良心はマイナスになる。
でもやっぱり人間だから、良心は完全なマイナスとは言い切れない。
悪三郎にはその辺の葛藤が、もしかしたらあったんじゃないかと思う。

ということで、プラスに近いマイナス。もしくはマイナスに近いプラス
わかりにくい説明だと自分でも思います。なんとなくこうかな?って思っていただければそれで良いです。文才に限界がありますのでお許しをたらーっ(汗)



そして最後に【面】。

国盗人では、「面」が単独で登場していました。(つまり、人が付けるのではなく、面を持っているだけ。「まちがいの狂言」みたいな感じ。)

その「面」の存在感は、結構大きかったと感じます。
「日傘の白い女性」の所でもあったように、「面」も矢張り、最初と最後を飾っています。
最初は白い女性が持っていて、最後は殺された悪三郎の顔から落ちてそのまま残る。

どちらも武悪の面だったかと思います。でも色が白かったので違うのかな?
いや、多分武悪だとおもうけれど。

あの面は何を表していたのか。「影」と同じくらい分かりません。
朧気になんとなーく、感じるものはあるのですが言葉にできない。(それってつまり理解できてないのだろうな・・・泣)

最後に、舞台の上に武悪の面だけが残るのですが、その情景には何か感慨深いものがありました。(やっぱり「儚さ」みたいなものかな・・。)



そんなこんなで、本当に工夫がてんこ盛りでした。
一回観ただけでは分からないところもあります。(私の経験不足もありますが)

いろんな意味で、面白い舞台でした。
もう一度、どころではなく、何度も観たいです。
ジブリ映画ではありませんが、観るたびに新しい発見があると思います。







政子が悪三郎を呪う場面も好きです。なんか笑えた。
悪三郎が、嫌よ嫌よと言い乍らも王になる場面のあのリズム感(木魚で拍子を取っていた辺り)もとても良かった。なんだかリズムが、狂言の「呼声」っぽいな〜と思いました。(確信も根拠もなく。)

観客を「市民たち」にしてしまう場面も好きです。(それはシェイクスピアの功績ですが。)そこら辺、とても上手く演出されていたと思います。

久秀(石田幸雄)の「帰ろう帰ろう」は面白かった。
てこでも動かない〜〜〜あせあせ(飛び散る汗)
という話も楽しかった。

言及したい所はまだまだあります。



最後に一つ。

リチャード(悪三郎)は悪党です。紛れもない悪党です。
だから戒められるのは当然ですが、彼は、最初から最後まで孤独です。
頭脳と口の上手さ以外に、良い物は何一つない。
だから、彼自信も言っているように、「悪党になるしか」なかった。
多分、これは必然だったのです。

例えは悪いですが、目の不自由な人がピアノを弾く事や、手足の動かない人が口で絵を描く事。それは、自分のマイナス面は諦めて、自分にある他の能力を生かそうという試みです。それは素晴らしいことです。

しかしこれをリチャードに当てはめると、
彼には明晰な頭脳と口の上手さが「自分がもつマイナス面を諦めるための、自分にある他の能力」なのです。
彼はそれを、前述した「目の不自由な人」や「手足の不自由な人」と同じように「生かそう」としただけなのです。

ただ、その行為の方向がマイナスになってしまった。違いはそれだけです。

だから、どうしても最後の場面になって、リチャード(悪三郎)への同情心
が湧いてしまう。
原作を読み終えたときも、
国盗人を観たときもそうでした。
リチャードは不幸な男なんだと思います。でも不幸ながらに一生懸命生きているではないですか。

実は、私が一番期待していたのはそれです。
リチャード(悪三郎)への同情心。
これを「国盗人」の中でどう観客に感じさせるか。それが、密かに萬斎さんに期待していたことだったりします。

しかし見事に同情させられました。
母に蔑まれる場面での悪三郎の演技は悪三郎の悪党の性質を残しながらも感傷的だったし、最後に理智門に殺される場面が留めでしたね。
同情心が湧きました。

演出も素晴らしかったけれど、演技も素晴らしい。
悪三郎特別コンサート(?)はかなりツボです(笑)あれ、凄く楽しいexclamation
まさに栄枯盛衰の「栄」「盛」ですね。


感動しました、「国盗人」。
TVの前で拍手しました(←本当)


長々とわかりにくい上にかなり主観的・独断的な文章を失礼しました。
狂言や萬斎さんの活動をご存じない方には特にわかりにくかったことと思います。すみません。


次はノーカットを楽しませていただきます揺れるハート


そういえば今年は亥年(イノシシ)。
だから「国盗人」をやった時期としては最適ですね。
悪三郎(リチャード)の家紋がイノシシだし・・。


☆芸術劇場サイト
http://www.nhk.or.jp/art/


☆こちらのサイトにインタビューが長々とぴかぴか(新しい)ぴかぴか(新しい)必見!
http://performingarts.jp/J/art_interview/1.html

☆万作の会 事務局からのお知らせ頁
http://www.mansaku.co.jp/sakukaif.html




posted by 真禅寺忍月 at 19:23| ☁| Comment(4) | TrackBack(0) | 鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
はじめまして☆ 私もNHK教育で『国盗人』観ました。よかったですよね。原作のシェイクスピアは私は未読なのですが、とても面白く観れました。

真禅寺さんの「影」についての考察がすごく興味深くて、なるほどと思いました。微かに残る良心なんだ…(納得)。原作を読みたくなりました。
私もノーカットでもう一回観るぞ!
Posted by 薫子 at 2007年08月12日 10:48
薫子さんはじめまして!
国盗人ご覧になりましたか★
原作を読まないで観ると、原作を気にせずに観られるので、また違った楽しみ方ができると思います。

>影
昨日は「良心」と書きましたが、色々考えてみて、今ではちょっと考察が変わってきています。
確かに「影=良心」は一つの要素ではありますが、それが明らかになるのは最後の方のリチャードが敗北する場面。
その前までは、リチャードにとって「影=悪行」であり、「悪行」は悪人であるリチャードにとっては崇めるべき物。つまりプラスのもの。
彼にとってはプラスの物ですから、執着もするし、「見とれて行きたい」とも言う。

それが、最後になって「良心」に裏返る。

こう考えると、「影」って結局何だったの?ということになってしまいますが、そこら辺はぼかしてもいいかなと。

「影=悪行」→→「影=良心」
というふうに変化したとも云えるし、

「影」は「悪行・良心」のふたつを同時に含んでいたと言ってもいいと思います。

長々とすみません・・。あとで日記のほうで考察し直してみようと思います。


あくまで独断ですから、もしかしたら間違ったとらえ方かも知れませんが・・。
納得していだけたようで、ちょっと安心しました;
是非原作も読んでみてくださいね!角川文庫の河合祥一郎先生訳の物がお勧めですよ☆
Posted by 真禅寺 at 2007年08月12日 17:24
いえいえ、いろんな考え方があっていいんだと思いますし、「間違ってたら」なんて気にする必要はないですよ〜☆

悪党になると宣言した悪三郎にも、最期の最期までその決意とは裏腹な良心が僅かながらに残っていた、とする解釈は、私はとても説得力があるなぁと感心しながら読みました。そのほうが「人間」を描いているというリアルさを感じます。

善も悪も、天使も悪魔も、弱さも強さも、混然と内に抱えていて、そして常に揺れ動いてるのが人間なんですね…。深い!
Posted by 薫子 at 2007年08月12日 23:11
>薫子さん
そうですね。リチャード三世については色々な解釈があるのでしょうね。
人間くささを描いている・・・なるほどそうとも云えるでしょうね。

深い深い。

国盗人では、「リチャード三世」が持つ様々な「顔」のうちの「笑いの要素」とか「リチャードの楽観性」が強調されていたようにも思えます。
悪三郎、楽しいキャラクターだったし・・(^^)
Posted by 真禅寺 at 2007年08月13日 13:14
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